氏親は、あかるく聡明に成長していた。かれは早雲を師父のようにおもい、顔を見るたびにさまざまなことを問うた。
「いのちとはなにか」
などということまで訊く。
「陽炎にてつくりたる壺のごとくはかなきものでござる。ひとたびこわれ、五蘊(ごうん)去らば空(くう)に帰しまする」
「空とはなにか」
「何も無し。水にても候わず、木にても候わず、金にても候わず、土にても候わず、風にても候わず、火にても候わず」
「心細きものよの」
年少の身で、いのちのはかなさをこう露骨にいわれれば、身もふたもない。
「禅におはげみなされませ」
禅はこの時代の必須の教養というべきものである。
「励んだところで、そのように空しければ甲斐がないではないか」
「空しきことと空とはまったくちがうものでござりまする」
「ちがうか」
「空あればこそ万物が生じまする。五蘊あつまり、因縁これに加わらば、ふたたびいのちを生み奉りまする。空なればこそ、百虫生じ、魚介生じ、畜類生じ、人を生み奉りまする」
「奉るとは」
と、氏親は早雲の物言いのおかしさに笑った。空に対して敬語をつかうことはあるまい。
「空は、おごそかなるものでござりまする。神仏すら生み奉る」
「神仏、そのことについてかねて訊いてみようと思っていた。神仏とは人が作ったものではないか」
「人が作れるはずがござりませぬ。空が人に知恵をさずけて作らせたるものでござる。されば神仏を拝むことは空を拝むことでござる」
「空は、どこにある」
「ある・なしというものではござりませぬ。感ずるところ鋭ければ、この世に満ち満ちております」
‐ 司馬遼太郎 『箱根の坂』より(括弧内は筆者) ‐
DATA:Leica M6 Summicron 50/2 Ilford XP2-Super f2.8 1/60