安土セミナリオで聴いたあのふしぎな楽器の音色は、藤吉郎は終生わすれられないであろう。あの日、藤吉郎は信長に扈従してセミナリオを参観した。
このとき(中略)武家貴族の少年たちが、賛美歌をうたい、オルガンを弾いてみせた。藤吉郎はその音色の妙なることにおどろいたが、それ以上におどろいたのはそれに聴き入っている信長の秀麗な横顔であった。
信長はもとより音楽をこのみ、よき笛師や鼓師をかかえていたが、かれもこの世でこれほど微妙な諧律をきいたのはむろんはじめてであったであろう。
信長はそのオルガンに寄りかかり、心持首をかしげ、すべての音を皮膚にまで吸わせたいという姿勢で聴き入っていた。藤吉郎のおどろいたのは、その横顔のうつくしさであった。藤吉郎は信長につかえて二十年、これほど美しい貌をみせた信長をみたことがなく、人としてこれほど美しい容貌もこの地上でみたことがない。その印象の鮮烈さはいまも十分に網膜の奥によみがえらせることができるし、時とともにいよいよあざやかな記憶になってゆくようでもあった。
‐司馬遼太郎 「新史 太閤記」 より‐
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