バスに乗るときは、後ろのほうの窓際の席に座るのがすきだ。座って車窓の景色を眺めたり、写真を撮ったりしたいから。家人と所用のために乗りこんだその日も、そうやってカメラを持ってぼんやり車窓を眺めていた。
「ほんとにひどかったわよ」
ぼくの座席のちょうど真後ろあたりから、年配の女性らしい声が聞こえてきた。どうやら二人連れらしかった。聞くとはなしに会話を聞いてしまう。
「そうなのねえ」
「とにかくギャンブルが好きで好きでねえ。娘もまだちいさかったし、ホントによく我慢したと思うわ」
「娘さんがいくつの時に出たんだっけ」
「12のときよ」
「でもねえ。ご主人、死ぬまでずっとあのアパートに住んでたなんてねえ」
「そうなの。あたしも聞いてびっくりしちゃって。あれから30年もねえ」
「帰ってくるのを待ってたのかもしれないわよ。引っ越しちゃうと、ほら、わからなくなっちゃうから」
しばらく沈黙があった。バスは浅草を越えて、大川を渡るところだ。ぼくは水面になにか-たとえばネッシーやらクッシーやらタマちゃんやら-を見つけたように目を凝らすフリをしていた。そうこうするうちに、もうすぐ開業する巨大な塔が見えてきた。昔TVで見た、有名人の豪華ホテルでの結婚式に出てくるケーキみたいな塔。
「そういえばね、こないだ夢に出てきたのよあの人」
だしぬけにまた声が聞こえた。
「あたし、あのアパートに帰ってるの。あの人もいるの。でもね、部屋がね、うんと広いのよ。そりゃあもうびっくりするくらいに。それであの人、笑ってるの。ねえ、おかしいでしょう」
DATA:Leitz minolta M-Rokkor QF 40/2 f8 1/500